『レッスルボーイ』(注34)1991年12月に創刊したプロレス雑誌(発行・白夜書房)史上空前の進行と言われた内容は誤字脱字の見本市と揶揄された。表紙は獣神サンダーライガー。漫画家島本和彦氏と豊田真奈美(当時全日本女子プロレス)との対談も集録。
それ『レッスルボーイ』やってる時なんだ?(注35)多分違います。
『角海老宝石』(注36)宝石、ボクシングジム、ソープランドを経営するコングロマリット(笑)。
梅木(注37)梅木宣彦。大阪からある日ライターになるためにバイクで上京、高田馬場辺りの出版社で「イージーライター」としてデビュー。現在は引退。
冬木弘道(注38)https://ja.wikipedia.org/wiki/冬木弘道
中牧昭二(注39)https://ja.wikipedia.org/wiki/中牧昭二
『一軒家プロレス』(注40)正式名は「IWA JAPANプロレス 一軒家! 家庭内暴力デスマッチ」https://matome.naver.jp/odai/2141234318009848201/2141235192815838103
映画版が橋本(注41)https://ja.wikipedia.org/wiki/あゝ!一軒家プロレス
『ギニーピッグ』(注42)https://ja.wikipedia.org/wiki/ギニーピッグ
『安売り王』(注43)https://ja.wikipedia.org/wiki/日本ビデオ販売
監督が後のマメゾウ(注44)久保直樹監督のアダルト作品用監督名。
DDT(注45)http://www.ddtpro.com
大日本プロレス(注46)http://www.bjw.co.jp
『DOGLEGS』(注47)身体障害者がリングの上でガチンコのプロレスを行うその団体名。1991年12月の興行にレッスルボーイ編集部として観戦取材に。第2号で記事にしたところプロレスファンから総スカンを喰ってしまった思い出があるが、その後テレビニュースや篠山紀信までが取材に訪れ、微妙な気分になったなぁ。http://doglegs.a.la9.jp
キリングセンスのシャブさん(注48)https://ja.wikipedia.org/wiki/キリングセンス
篠山紀信(注49)フィルム1本で8枚しか写真が撮れない中判カメラを手持ちで構え、アシスタントにマガジン装着させながらリングサイドで撮りまくっていたっけ。
ホーキング青山(注50)http://www.hawkingaoyama.com/pc/
「実はオレも同じ学校でね~」(注51)東京都立光明特別支援学校
障害者(注52)最近では「障がい者」と表記するようですが、ここでは当時の表記にいたします。
『闘聾門』(注53)ろうあ者のプロレス団体。ネットで調べてみたけどなんかぐちゃぐちゃです。
チョチョシビリ(注54)ペレストロイカ後に新日本プロレスとプロ提携をした「レッドブル軍団」の柔道チャンピオン。https://ja.wikipedia.org/wiki/ショータ・チョチョシビリ
『呑者家』(注55)新宿3丁目にある使い勝手の良い居酒屋。旨い、安い、朝までやってると三拍子。
”〆さばアタルヒカル”(注56)雑誌掲載時は「雨空トッポ・ライポ」がコンビ名。ライポ(〆さばヒカル)さんは2006年に死去。
鈴木さん(注57)鈴木利夫。今や伝説のプロレス団体「国際プロレス」元営業本部長。マグナムが知り合いだったことからレッスルボーイで「国際プロレスの残像」という連載企画がスタートした。
八幡(注58)八幡均。上記「国際プロレスの残像」の著者。山形県鶴岡市出身。現在はモンテディオ山形の熱烈なサポーター。
第三稿(注59)三回連載のはずだったが第3号は売り上げ不振のため発売中止。第三稿は世に出ることはなかったが、マグナムだけはその原稿を読んでいた。
『龍源砲』(注60)プロレスラー天龍源一郎と阿修羅原のコンビ名。
栃内さん(注61)栃内良。当時プロレスと言えば新日本プロレスの猪木論が全盛だった頃に「馬場派プロレス宣言」を上梓したルポライター。
上田勝次(注62)大仁田厚が旗揚げしたプロレス団体FMW(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)にキックボクサーとして参加。レッスルボーイ創刊号でのインタビュー特集は一部で話題になった。行き違いからヤクザを肘で殴り殺し、以降試合での肘打ちを封印したという告白は、作家・永沢光雄により引き出された。両名ともに死去。
彼(注63)増田俊也。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の著者。
キム・ドクとの写真を出された時(注64)マグナム北斗のFacebookに突如26年前の写真を掲載されてびっくりした写真がこれ。キム・ドク(後方)前右からマグナム北斗、リベラの大将、松沢雅彦。いやいや…。